映画関係者も驚いた「新聞記者」の主要3冠独占
権力中枢の現状を描いた「新聞記者」は日本映画界の異端児か
2020年の第43回日本アカデミー賞は松坂桃李とシム・ウンギョンが共演した「新聞記者」が最優秀作品賞、最優秀主演男優賞、最優秀主演女優賞の主要3部門を独占する快挙となった。
映画「新聞記者」が上映された意義や可能性、なぜ、安倍官邸と闘う原案者・望月衣塑子記者が東京新聞で許容されているのか、昨年、2回にわたって解説しているので、まだ「新聞記者」を見ていない人は参考にしてほしい。


ちなみに、私は昨年、「新聞記者」の興行収入が4億円を突破した時点で、次のような記事を書いた。
いまに始まったことではないのかもしれないが、映画館で流される邦画の予告編にうんざりすることがある。
なぜなら、扱うテーマが恋愛か家族かバラエティーか、いずれにしても権力中枢で何が起こっているのか、国民に問いかけようとする覚悟のある作品が皆無だからだ。
あえて言えば、企業の不祥事をモチーフにした作品はある。しかし、政治になると、日本の映画人は途端に臆病になる。
そんな中で、とかく菅官房長官との会見バトルが話題になる東京新聞の望月衣塑子(いそこ)記者の著書を原案とした映画『新聞記者』が6月28日に公開され、興行収入4億円を超える大ヒット作となった。
本作は安倍政権内の問題を同時進行的に描いた社会派エンターテイメントだ。
若者を中心に保守化が進行していると言われるニッポンで、この映画がなぜ人気を博しているのか?
いま、日本に漂う歪んだ空気を多くの国民が感じているからだと思う。
日本アカデミー賞とはなんぞや
作品賞、主演男優賞、主演女優賞の3部門独占に最も驚いたのは、映画「新聞記者」を企画した河村光庸プロデューサーはじめ役者や製作者たちではなかったかと思う。
授賞式で主演女優のシム・ウンギョンが「全然受賞すると思わなかったので、全然、準備をしていなかった。ごめんなさい」と多くを語らず号泣するだけだったことが、その証左でもある。
当事者以外にも驚いている人たちがいる。
それは映画業界の関係者たちだ。
「新聞記者」の配給会社は、東宝、松竹、東映といった大手映画会社ではない。スターサンズという独立系配給会社と、イオンエンターテイメントという映画興行会社だったからだ。
日本アカデミー賞は2019年現在、会員数が3959人。このうち東宝が298人、松竹は298人、東映281人の社員が登録し、その3社だけで877人、22%を占めている。(参照:日本アカデミー賞公式サイト)
基本的には自由投票とされているが、これまで映画業界では大手3社の配給作品や日本アカデミー賞を放映している日本テレビの出資作品が有利とみられてきた。
それだけに、河村氏が孤軍奮闘するスターサンズ配給の「新聞記者」が日本アカデミー賞の主要部門を独占したことには、映画業界を知っている人ほど驚いたはずだ。
日本映画の危機は観客動員数で測れない部分にある
時の政権に不都合な作品を製作できない日本の映画界
映画「新聞記者」は安倍政権になって霞ヶ関ばかりではなくテレビ業界にも”忖度”する空気が拡大し、世の中が息苦しさを感じた時期に製作・配給された作品だ。
東京新聞の望月衣塑子記者が毎日のように官房長官会見でしつこく質問する姿は、右寄り文化人の不評を買う一方、リベラル文化人や新聞記者にも共感する人たちが少なくなかった。
そんな望月氏のノンフィクション「新聞記者」を原案にした映画「新聞記者」は、安倍官邸やその支持勢力にとっては極めて不快な作品だったはずだ。
しかし、ハリウッド映画を見ていると、時の政権に対して不都合な事実や描写であっても果敢に描き、むしろ国民に伝えようとする映画人を見つけることはさほど難しいことではない。
一方、私たちが住む日本の映画界といえば、まず皆無。今回、「新聞記者」を企画した河村プロデューサーは稀な存在だ。
昨年、公開された政治関係の映画といえば、昨年9月公開の「記憶にございません!」(監督・脚本は三谷幸喜、主演・中井貴一)がある。
記憶喪失となった総理大臣をめぐるドタバタ劇だが、予告編を見ただけで荒唐無稽すぎるストーリーと中井貴一の痛々しさに劇場に足を運ぶ気にもなれなかった。
それでも、この作品は全国に立派な劇場を持つ東宝が配給したためか、興行収入は40億円を突破した。
一方、日本アカデミー賞主要部門を独占した「新聞記者」は興行収入が4億円。10分の1程度である。
興行収入40億円超の作品よりも、4億円の勇気ある作品が映画関係者の支持を集めたのである。
映画は自由な娯楽であるはずだ!
私は日本映画に時の権力に真正面から向き合った作品が見当たらないのは、自分たちは政治知識が乏しく作品に仕上げる能力不足だと映画人が自覚しているためだと思っていた。
しかし、今回の「新聞記者」は、あえて、河村プロデューサーが政治を知らない若い藤井監督を起用し、藤井監督と役者、製作陣が見事に仕上げた作品だった。
製作過程で「テレビ製作に支障が出る」などと協力を断った制作会社や、腰の引けたプロダクションもあってキャスティングにも苦労したようである。
つまり、作る側の能力の問題ではなく、作る側の勇気の問題だったのである。
霞を食べて生きていけないのだから、日本映画が興行成績を追いかけることは当然だ。むしろ、多くの人に見てもらいたいという働きかけは素晴らしいことだと思う。
しかし、毒にも薬にもならない娯楽映画ばかり量産していては、やがて観客は映画館ではなく動画配信サービスで自宅鑑賞するようになる。
というのも、ネットフリックスという巨大な船が上陸し、配信だけでなく、巨額の製作費を背景に映画製作にも積極的だからだ。
しかも、ネットフリックスのオリジナル作品は権力への配慮はしない。自由に作る、まさに映画の原点を体現している。
さらには、全米の映画館を買収し、各種映画祭での上映資格を入手するために必死だ。
「新聞記者」がどんな人たちの支持を集めて日本アカデミー賞3部門を独占したのかは分からない。
恋愛やコミックなど娯楽に偏した作品ばかりでは巨大な黒船にやられてしまうという危機感、レジスタンス、批判票だったのか。
そうだとすれば、映画業界もまだまだ捨てたものではないと思う。
自由を誰のために行使するのか?
自分たちの稼ぐ道具だけでなく、多くの人たちに深く今を考えてもらう最良の道具であることを意識した映画人が数多く登場することを願ってやまない。
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